自分史上初の言葉
「好き」になる理由は毎回違うのに、
同じ「好き」という言葉を使うのはなぜだろう 。
好きや嫌いという言葉を器とするならば、人は相手をどちらかに振り分ける。
時に好きから嫌いへと中身を移動させる。逆もしかり。
好きになることは、その人を「好き」の器へ入れること。
でも人は、特別な相手のために、
その人だけの器をこさえることはしないのだろうか。
その人のための器。言葉。
それまでの自分になかった器を、その人のために作り出す。
そういうことはないのだろうか。
自分にない感情の器が作られる時、
人は既にある言葉でその感情を表現する。
手持ちの言葉の組み合わせ、つまり文章で、固有の感情は表す。
でも、それは新しい「言葉」じゃない。
「この感情 には、この言葉」という風にはならない。
「あなたがくれたこの感情につけた名前はコレです」 と言えるモノではない。
これって私的言語?
そうか。こうも言い換えられそうだ。
一人一人に抱く感情は違うのに、
「好き」と「嫌い」の2つの言葉ですむのはなぜだろう。
指示の問題、志向性、意味論、言葉の不思議である。
そもそも言葉に、明確に決定づけられた指示対象なんてあるのだろうか。
しかし、これはまた別の話。
つづく?